坪内逍遥少年時代住居跡、逍遥先生旧居の趾
名古屋駅近くを歩いていて偶然気がついた記念碑。
坪内逍遥が幼少期を過ごしていたらしい。
現在は、マンションが建っているので、この記念碑を除けば何も面影はない。
ー記念碑のからの転記ー
【坪内逍遥少年時代住居跡】
近代日本文学の先駆者・坪内逍遥(幼名=勇蔵・一八五九~一九三五)は、尾張藩に仕えた父の隠退と共に美濃太田よりここ(旧・上笹島村)に転居、数え年で11歳から18歳までを過ごした。
その間、寺小屋や漢学塾に入門する傍ら絵や書を習った。14歳で英語学校に入学。その余暇を利用し芝居見物をしたり通学途中にあった貸本屋「大惣」で雑書を濫読したりして幅広い文学的・芸術的素養を培った。逍遥自身も「大惣は自分の芸術的心作用の唯一の本地『心の故郷』」と記している。
18歳で英語学校を卒業。県の選抜生として開成学校(東京大学の前身)に進学し上京した。
名古屋市教育委員会の標札から転記
【逍遥先生旧居の趾】
逍遥坪内雄蔵は安政6年(1859)5月22日美濃太田(現 岐阜県美濃加茂市)に生をうく。明治2年11歳、ここ上笹島村(当時)に一家で移住。同9年開成学校(現 東京大学)に入学するまでの多感な少年期を過ごす。明治16年、大学卒業と同時に東京専門学校(現 早稲田大学)に迎えられ、昭和6年、大学を辞すまでの間、文学部を創設「早稲田文学」を創刊、早稲田中学の校長を兼任するなどの活躍、今だに、早稲田大学の至宝と仰がれている。
外にありては「小説神髄」「当世書生気質」を以て近代小説を開拓す。演劇界にその活動の場を移しては、文芸協会を設立して、新しい俳優を養成、歌舞伎座には新史劇・新舞踏の提供等、実践と理論の両面で斯界を牽引す。独力で完訳したシェークスピア全集の改訂に終生専心、演劇博物館の創建等、近代日本の先駆的文化人として偉大な足跡を残す。
昭和10年2月28日没、77歳。