読後感

リーダーの仮面(「いちプレーヤー」から「マネージャー」に頭を切り替える思考法):安藤広大[あんどうこうだい]

タイトル:リーダーの仮面(「いちプレーヤー」から「マネージャー」に頭を切り替える思考法)
初版:2020年11月24日
発行:ダイヤモンド社
著者:安藤広大[あんどうこうだい]

 著者の提言する「識学」には何ら異論なく、どちらかと言うと、私自身が目指すところ、実践して来たところ、そうしたいところである。

 文体も読みやすく、全体を通して読み応えあり。全編を通して違和感もなく、2、3時間ほどで読み終えてしまった。

 本著中で、著者自身が、ちょっとドライな人間関係の提言などに対して「非難・批判もあるが」と記載しているが、全くもってその様なことは感じることはなかった。

ほんと、そう思う的な内容ばかり

 部下に指摘するときに、「頑張る理由を用意しない」ということです。なぜなら、上司からの指示を実行するのは「あたりまえ」であり、理由はいらないからです。よくある失敗は、仕事の意味や価値を伝えることです。

 これは本当にそう思う。
 私自身よく言うセリフに「頑張るのは当たり前だ。頑張った上で『結果を出せなかったら、辞表を出す覚悟でやれ』」がある。これに少し通ずるところがあると思う。

 よく、決起会や、景気付けに「ウォー」と声を出し合ったり、円陣を組んで盛り上がったりするような会社があります。
 飲み会やカラオケにみんなで行って、「すごくテンションが上がったから頑張ろう!」などと言っているチームもあります。
 そういう組織が、もっともダメな例です。

 さすがに今時は、景気づけに鬨の声の様なものを発したりする会社はないでしょ?と、信じたい。・・・でも実際にあるんでしょうね。
 ただ、飲み会とかが「課の結束力を固める。」と信じている昭和の残党的感覚はまだ多くあると思う。
 確かに、飲み会でテンションを上げたところで、長続きしない。むしろ次の日には反動で逆にだだ下がりだと思う。
 個人的には「仕事そのものがテンションが上がる。」様にしていくのが管理職(リーダー)の責務かと。
 ただ、私は年に1、2回くらいは課で食事会はしてますね。二次会や三次会は当然しませんが、あくまで年に1、2回くらいのコミュニケーションは別に悪影響は及ぼさないでしょ。と思っている。

会社組織において、他と比較されない「絶対的価値」はないと考えたほうがスムーズです。
「世界に一つだけの花」であろうと、花屋では売れていく順番があります。
つまり、「相対的評価」を受け続けます。

 「世界に一つだけの花」の歌詞は数学的に考える力をつける本でも否定されているところです。
 世界に一つだけの花であっても相対的評価を受ける。当たり前のことです。
 ただ、この(勝たないと意味がないと言う)現実から目を背けている人が多いのも事実。なので、あんな薬物中毒者(槇原敬之)の歌詞に惑わされる人が多いのだと思いますが。

反論と言うほどでもないですが・・・

 本著では、上司(リーダー)として、時には厳しいことであっても、あえて貫き通すことを以て問題解決をかはる必要性や、課の利益・会社の利益を最大化するための手法が提案されている。

 もちろん、何ら異論はない。そして、著者の興した会社はそれが可能なのであろう。また多くの会社でも可能なのかも知れない。

 しかし、日本には恐ろしいことに「労働組合」+「年齢給」と言う魔物が巣食っている。(会社によるが)

 私自身が某労働組合で、書記長と言う立場で上部団体や関連団体の会合などに出席あるいは他社の労働組合役員と交流をしてきた経験がある。

 その中で「本当に資本主義の下に生きている人たちなのか?」と疑う人も大勢いたことは事実。
 もちろん、誰しもが平等に幸せに生きられる社会の実現を目指すことも否定しないし、それに向かって行動(活動)することはすばら良いことだと思う。

 ただ、誠に残念なことに、(私が労働組合を毛嫌いする理由だが)彼らの平等とは、優秀な人が一所懸命に働いて、そこから得た果実は働かないものにも量的に平等に享受する。と言うものであった。
 本書の例えで言うなら、マンモスの狩りに出かけて10人の男たちの中で、「俺は人よりも怪我もしたくない気持ちが強いから、9人で戦ってくれ。でも肉は私も10分の1もらうからね。」と言うことを平気で言う様な人たちである。
 おそらく、労働組合に関与したことのない人たちからすると、「そんな奴いねぇよ。」と突っ込みたくなるが、実際に私がみた光景は「そんな奴ばかり」である。
 著者や大手企業で生き馬の目を抜く様な人生を歩まれた方からすれば、なかなか接点のない方々である。ただ、現実にはそんなのもたくさんいてる。そして、法律を盾に意外にでかい顔をしてのさばっている。

 そんなのが部下にいたとしたら、いかに理路整然と、本著の提言する「識学」を実行しても無駄である。何故なら、彼らには「自己の成長も、会社の利益も興味がない。」からである。

 ただ、この辺に言及し出すと、本著とのテーマがズレてくる。それを承知でさらに深く掘り下げると、本文の以下の部分にも関連してくる。

新しいことをすると、必ず反発があります。
人や組織は、これまでのやり方を続けるようにできています。。
だからこそ、感情を横に置く「リーダーの仮面」が大事になってきます。

 「これまで、この方法でうまくやって来れたのだから、なぜ変更するのですか?」と言う下からの抵抗に悩まされる管理者は多いと思う。私自身そうだった。

 「世の中は流れているのに、自分たち(自社・自部門)は同じ位置に立ち止まっていてることに対する危機感を感じられるかどうか」なのだと思う。

 年齢給と言う、黙っていても給料が上がるシステムかつ労働組合に守られた職場では、俯瞰的に物事を見る必要もないのだから、当然にして先のことなど見ない。見る必要がないから。彼らからすれば、労働者の権利さえ主張し続ければ、将来的には管理職ほどの給料は得られないものの、会社が存続する限り、自動的に昇給が保証されている。

 そして、会社が永続する限りと書いたが、労働組合活動に勤しんでいる人たちは、驚くことに「会社は永続し続けるものだ。」と盲目的に信じている人が多い。

 そんな彼ら(特に、10歳以上も離れた様な年上の部下だった場合)に、新しいことをさせる労力の無駄は計り知れない。本著で言うところの、理論・ルールで正しくあっても、丸っ切り意味をなさない。

もしかしたら、部下は口では、
「楽しく働ければ、それだけで満足です」
「ラクに働ければ、成長しなくてもいいです」
と言うかもしれません。
しかし、その言葉を真に受けてしまっては、リーダー失格です。

 「その言葉を真に受けてしまっては、リーダー失格です。」と、著者は書いています。

 しかし残念ですが、私の実感(経験)では実際には結構な確率で、そのような「楽しく(かつ楽に)働ければ、それだけで満足です」と考える人はいてます。

 おそらく著者(の会社)にコンサルティングを頼む様な企業には、上記の様な方々は存在しないのでしょうけれど・・・。

 ふと、昔の嫌な思い出が正反対の例として思い浮かんでしまい、否定的なことを列挙してしまった。

 個人的には、そんな人たちも反面教師として私の成長を助けてくれた人たちなのかもしない。


リーダーの仮面―――「いちプレーヤー」から「マネジャー」に頭を切り替える思考法

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です