読後感

猫は神さまの贈り物 エッセイ編

タイトル:猫は神さまの贈り物<エッセイ編>
初版:2020年10月15日 
発行:株式会社実業之日本社
著者:奥野信太郎,木村荘八,寺田寅彦,大佛次郎,豊島与志雄,白石冬美,長部日出雄,熊井明子,夏目漱石,中村眞一郎,柳田國男,山崎朋子,黒田亮,島津久基,谷崎潤一郎,吉行淳之介

《猫》をテーマにしたアンソロジーで、原著は1982年に発行された『猫は神さまの贈り物』。

2014年に小説編、エッセイ編に分冊し、作品が追加されて改訂復刊の、さらにその改訂復刊版となる。

こちらは、<エッセイ編>となる。先の<小説編>と同時購入。

小説編、エッセイ編と続け様に読了し、面白かったんだけれど、エッセイ編後半に一作だけきな臭いのが混じっていた(笑)

以下、感想など

苦しい生活をして働いているひとなら、こうしない。紳士淑女のしっぽのやつらで高級の方でないことは確実である。だから、私はその見てくれの偽善を忌まわしいと思う。霜夜に捨てて凍え死にさせるくらいなら、オシャマスなべにして食ってやる方が人道的なのだ。なんじの欲せざることを他人にほどこす。捨てるなら勇気を出して鍋で煮て、おあがりなさい。
(中略)
私はインテリ家庭の人道主義を信用しない。猫を捨てるなら、こそこそしないで名前を名乗る勇気をお持ちなさい。

『ここにひとあり』大佛次郎[おさらぎじろう]

(オシャマスなべ=牛肉、豚肉ではなく、猫の肉を使った鍋料理。)

 ある程度生活に余裕のある人ほど著者の家に、無造作に猫を捨てていくことについて述べた一文。

 現代でもあると思う。例えば、ファッションとか自分の寂しさを紛らわすために猫(に限らず動物)を飼っていて、「引っ越し先で猫を飼えない。」と言う理由を、まるで正当な理由の様に語る人。引越し先で猫を飼えないじゃなくて、猫を飼えるところを探せよ、立地が不便だったり家賃が高かったりしたとしても。


すべての猫の例にもれず、用をたす時は砂箱の上で、実に優雅に空をみつめ、哲学者のような詩人のような崇高な気品にあふれていて、猫ほど美しく用をたす動物はいないのではないかと私はまた思うのでした。

『桃代の時代』白石冬美

 猫の用を足す姿をわざわざ文章でこの様に表現するって、単純に「どんなけ猫好きやねん!」と突っ込みたくなったので引用してみた。


猫が死んでから、二度と生き物は飼わぬことに決めた。

『家なき猫たち』長部日出雄

 何度もペットの死を経験しながら、新たに飼える飼い主の精神力はすごいと思う。

 割り切れば「寿命」や「運命」なんだからと受け入れられるものなのだろうか。


「そうするとね、生活保護受けているのに猫なんか、と云われるんです。でも、本当に暮らしに困って、明日の米も無いような生活の経験があるから、ひもじい猫を捨てておけないんですよ」

『私の猫がいない日々』熊井明子

 大佛次郎の『ここにひとあり』の「苦しい生活をして働いているひとなら、こうしない。」の方ですね。

 ただ、やっぱりペットは衣食足りてからって言うのも正論だとは思いますけれどね。


わが家には、常時、十数匹の猫が住んでいる。飼っているといってもいいが、先方は飼われているつもりかどうか、そこのところがよくわからない。

『私の動物記・猫』中村眞一郎

猫は神さまの贈り物じゃなくて、猫自身は自分自身を神様と思っているのだから仕方ない。


けれどわたしは人類だけが富み栄えれば良いという考え方には反対で、あらゆる生物の共存して行くのが本当の〈文化〉なのだと本心から思っているからこそ、猫のためにこんな苦労もしたのである。

『わが家のライオン』山崎朋子

 猫のために苦労もしたとある。が、すべて自分の(エゴの)ためである。

 そして、命をすでに自己満足のためにペットとして飼っている時点で、共存ではないでしょ?

 明らかな「偽善」だけど、確信犯なので本人は本当に「善行」だと思っているんだろうなぁ。

 そもそも、自分の都合で引っ越しをして、引越し先に猫を連れて行くために取り押さえて麻酔注射をした上で、ボストンバッグに詰め込み連れてきた猫。

 その猫が暴れて爪痕をつけられたが、我慢している自分に陶酔した文脈から「けれどわたしは人類だけが富み栄えれば良いという考え方には反対」と無理矢理な文章をぶちこんでくるので、激しく違和感を感じた次第。

 と、ここまで書いて、違和感が拭えず、調べてみたら案の定と言うか、教員(経験者)であった。つまりは、言わずもがな反日左翼だった。(wikipedias参照)

 なぜ、左翼っぽく感じたかと言うと、私の左翼感知能力が高いわけではなく、引用の短い抜粋からでもビシビシと左翼感が伝わってくる。

 この手の人たちは、文章ですら「自分の考えは崇高である!」と言うことを全面に押し出し、さらに「私は崇高、(私に賛同できない)他は愚民」と言うことを言いたがるからすぐにわかる。

 例えば「本当の〈文化〉なのだ」と、わざわざ“本当の”とつけるところあたりは、私に賛同できない愚民の言う文化は本当の文化ではない。と言外に言いたいのだろう。

 また、前述の通り文脈無視で「人類だけが富み栄えれば良いという考え方」などと言う壮大な理想論を語り出したり、「猫のためにこんな苦労」との表現も自分のエゴなのに誰かのために奉仕しているかの様な振る舞い(言動)をしたりと、とにかくわかりやすい。


猫は神さまの贈り物〈エッセイ編〉

 

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